2012年9月12日水曜日

素人の社会活動 素人こそ創造者(論点の整理)

●実現の時代、現実を対象化する為には、現実の真っ只中に居なければならない。現実の真っ只中に居る者、それこそが素人であり、従って、素人こそ真の創造者である。
潜在思念こそ探求(創造)の生命であり、潜在思念(⇒とその行動)の共認こそ共認の生命である。
●従って(直ちに行動できない現在)、素人の探求過程での潜在思念(⇒とその表出)のやりとりこそ、創造の漁場(狩場)であり、その場こそがるいネット(の会議室)である。

2012年9月11日火曜日

素人の社会活動34 創造(=探求)のパラダイム転換

●現実の課題があって、はじめて探求(創造)が始まる。そしてそこに先駆者や先覚者がいたとしても、その探求過程は、一貫して共認過程であり、皆との期待と応望の交信(やりとり)の中から全ては生み出される。
とすれば、
☆古代の哲人(シャカやキリスト)は、なぜ一人で山奥にこもって修行し創出しなければならなかったのか?
●頭の中の本源価値を確立する為には、私権に塗れた現実から身を引き離し、完全に遮断する必要があった。かつ、現実(自我私権)の引力に打ち克てるだけの潜在回路⇒観念回路を構築する為には、長い探求期間が必要だった。
☆では、近代の哲人(カントやマルクス)は、なぜ研究室や図書館にこもって、思索を重ねたのか?

2012年9月10日月曜日

会話・おしゃべりの効用

>今後は,現業(実地の業務)の場面にも会話が多用されるように感じます。<

この前、ある企画のプロポーザルに参加したんですが、提案の骨子部分のレポートに、チームの皆と途中で開いたコンセプト会議の「議事録」をほぼそのまま使って当選しました。

コンセプト会議といっても、小さな机を5~6人で囲んでの“少し真剣なおしゃべり”といった感じでした。そこでまとまった方針で企画が進んだだけでなく、その時とりあえず記録として作ったものが、そのまま最終レポートになり、クライアントにコンセプトを伝えるのにも一役買ったというわけです。

それまでは「一人で机に向かって」(http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=7112越見さん)シコシコとそのようなレポートを書くことが多かったので、これはけっこう新鮮な体験でした。

思うに、対面のおしゃべりというのは言葉だけでなく、その声の強さや表情、身振りなどを通じて潜在思念が飛び交う場で、その相互刺激が新しいアイデア創出の源になっているような気がします。その場で共有された感覚が新鮮なうちに言葉を書き留めたことが、出てきたアイデアのニュアンス、可能性の伝達にも奏効したのではないかと思っています。

田中素

2012年9月9日日曜日

システムからの脱却

最近感じていることですが、既存のシステムを打破するという発想を止めて、離脱したら良いのではないでしょうか。戦うのではなく無視する、そして戦うことにエネルギーを投入するのではなく新しいシステムをつくることにエネルギーを投入するのです。

2012年9月8日土曜日

世の識者の警鐘が心に響かないのは何故

長尾氏の投稿に対して矢ケ崎、菅原、野田、松尾の諸氏より異論反論が相継ぎましたが、私も違和感が在ります。
>ほとんどの環境専門家は異口同音に、これまでのようなスピードで地球や自然を破壊し続け、有害合成化学物質をまきちらしていくと日本の場合であればあと20年も「もたない」と言っている。<

 つまり、このままであればあと○○年も「もたない」と叫ぶ専門家は子供や家庭や教育の問題、犯罪事件や経済や政治の問題、そして地球環境の問題等あらゆる領域に溢れかえっています、ニュースショウや書店の店頭を賑やかにしてくれています。

2012年9月7日金曜日

個人主義と市場拡大に関して

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=4698の記事にありますが、
このような過程で個人主義は浸透していった。
 つまり、この見解に立てば、個人主義の物質的基盤は市場社会にあり、更に市場社会の奥には、私益追求の欲求及びそれを巡る闘いが存在するという構造が存在することになる。
 
 ではそれを踏まえて、現在的な問題はどこにあるかについて触れる。
 もちろん現在も私益追求の欲求は消滅してはいない。しかし最早それが現代人の最大の活力源足り得るか?という観点では、その絶対性が相当に衰弱している様に思われる。

2012年9月6日木曜日

それでも若者は仲間収束

>現在の子供たちの仲間意識はあくまでも表層的な仲間関係構築を土台にしており、いまだに残る旧い価値観や観念が暗い影をおとしているといえるでしょう。分かりやすく言うと、仲間を求めるのではなく、仲間はずれにされたくないという考えで仲間関係をつくり、仲間意識自体が一種の強迫観念になってしまっているのではないでしょうか。これは決して「共認」と呼べる状態ではなく貴方が指摘された「子供は敏感」すら損なわれている現状だと思います。<

恐らく一般的に現代の大人達は、貴方のご意見のように感じられる方が多いと思います。しかし、やはりこのことは、「見る側の状況」が反映されているように思えてなりません。子供達の現在的状況とこれを分析する大人達とは、当然「状況」が異なります。一般的に先人である側が、その考え方に、より先時代的価値観を色濃く残していることは、言うまでもないことでしょう。