2012年9月5日水曜日

真の民主主義を築くために

> 「哲学者は世界を様々に解釈してきた。問題はそれを変えることである。」

「個人の連帯と共生」を実現するためには、お互いが「人間の尊厳性」を尊重し、お互いの「自由」と「権利」を認めることが必要なわけですが、そのためには「人に迷惑をかけない限り何をしても自由」というエゴイズム(正確に言えばこれは自分主義(ミーイズム)と言った方が妥当かも知れません)は集団や社会の統合の観点から制御することが絶対条件となります。言うまでもなく、「自分」の「自由」や「権利」を主張することと「個人の連帯と共生」は必ず矛盾し対立するからです。


ここで今まで何度か指摘してきたことですが、この個人の矛盾・対立を力の論理で制御するやり方は、力の強い者の「自由」や「人権」を拡大し、その反面力の弱い者の「自由」や「人権」に抑圧や我慢を強いるものであるが故に必然的に支配や差別あるいは他人や社会に対する否定視の感情を生み出し、ひいては戦争や破壊あるいは貧困や犯罪を生み出します。残念なことに人類は20世紀までには「ヒューマニズム」の理念とは裏腹にこれらの問題を克服できておりません。

我々が21世紀に考えてゆくべき課題は、個人の矛盾・対立を力の論理とは別の統合原理で制御してゆくことではないでしょうか。それが「対話」や「相互理解」や「お互いが認め合うこと」そして「譲り合うこと」であり、実現論の概念でいうと「共認」というものではなかろうかと考えています。そして、そのために先ず必要なことが思想の変革なのだと思います。

繰り返しますが、個人主義はインテリ階級の難しい定義(自我は世界を対象化する視点であるとか、思惟する主体であるとかいう定義)とは裏腹に大衆的・現実的には自我=エゴを肯定する思想として理解されています。少なくとも個人主義者の中からはエゴとしての自我を明確に否定した思想は登場していないはずです。
そして、エゴとしての自我を明確に総括し否定しないまま「ヒューマニズム」を語るから、現実的には自我自我のぶつかりあいは力の論理で制御するしかなく、その結果社会の絆は弱まってゆくのです。そしてまた、エゴ=自我を否定しない個人主義の語る「ヒューマニズム」の理想は必然的に観念論に終わるのです。
ですから、皮肉なことにインテリや学者が個人主義を語れば語るほど大衆的には自我のお墨付きを得られたことになり、エゴイズム・自分主義を助長するということになります。ここに個人主義が欺瞞思想たる欺瞞の所以があります。

個人主義者は、エゴイズムと個人主義は別物であり関係ないと言っています。しかしそうであるならば、そもそも「エゴイズムの原因は何か?」「どうすればエゴイズムを制御・克服できるのか?」という問題に正面から答えるべきでしょう。

具体的な課題である市民の政治参加やコミュニティの再生のためには、力の論理に替わる統合原理がなくてはならないはずです。その中身を追求せずして「民主主義」という理念だけ叫んでもまた観念論になるでしょう。個人主義において多数決という力の論理に替わる統合原理があるのなら、それも併せてご説明願いたいところです。21世紀が真の「民主主義」社会になるために。

雪竹恭一

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