真猿が仲間の期待(課題や役割)に応えようとする際(雌が首雄の期待に応えようとする際も同じですが)、まず頭の中に充足イメージ(応合のイメージ)を描き、それを活力源とも先導力ともして、応合行動をとっています。この充足イメージの大部分は過去の体験記憶を元にしていますが、その記憶には自分の体験だけでなく、仲間たちの体験も含まれています。更に一部は願望=幻想です。とりわけ、-捨象・+収束のドーパミン回路によって描かれた評価の充足イメージは、幻想性が強くなります。
2012年8月31日金曜日
2012年8月30日木曜日
「やりたいこと」と「起業」について
| ”やりたいこと”とは何か? 私権フレームが機能していた貧困の消滅以前においては、どんな職業に就くにせよ、出世し、成功し、或いは偉くなり→カネを稼ぎ→豊かさを手に入れることが人生の目標であり、敢えて言えば”やりたいこと”だったのだろう。 或いは、豊かさの実現が未だなされていない社会を、問題意識=”志”をもって変革しようという意味での”やりたいこと”(というか成すべきこと)もあっただろう。 そして、貧困が消滅し、私権フレームが形骸化すると共に、人生の目標たる上記”やりたいこと”(=私権追求)も同時に衰退し、規範圧力の衰弱に伴う自我の肥大化を背景に、個人の自由な自己実現、自我充足の手段としての、新たな”やりたいこと”探しが始まったのではないか。その意味で、これは、昨今の”自分探し”と同義であると看て取れる。 ・・・市場における競争単位として、無理矢理捏造され、加圧されることにより形成されてきた”自分”や”やりたいこと”ゆえ、私権追求がリアリティーを失った今、それらも同時に輝きを失い、希薄化するのは必然であり、そんなものを自らの内に見出そうとしても見つかるはずも無い。 |
2012年8月29日水曜日
力の論理と共認機能
| 実際、真猿やチンパンジーの性闘争⇒序列闘争において、既にオスたちの自我回路は形成され作動していると見て、間違いありません。また、メスたちにも性闘争⇒序列闘争(いがみ合い)はありますし、それに加えて、同類闘争において全く戦力にならないという役割欠損(存在理由欠損)を孕んでいるので、メスたちが自我回路を形成しているのは、間違いないでしょう。 真猿集団の内部に発生するオス間の性闘争=自我闘争(更にはエサの取り合いetc.の私権闘争)やメスの規範破り(他の群れとの不倫)は、集団を破壊する危険性を孕んでおり、何としても止揚されなければなりません。しかし、周り「全てを敵」と見ている限り、共認は成立しません。この様な欲と欲がせめぎ合い、自我と自我がぶつかり合う性闘争や私権闘争は、力によってしか制圧できません。そこで真猿は、性闘争・私権闘争を制圧した力の序列を共認することによって(力の序列を秩序原理とすることによって)、性闘争・私権闘争を止揚し、共認の破壊=集団の崩壊を喰い止めているのです。 |
2012年8月28日火曜日
2012年8月27日月曜日
否定を超えて可能性基盤へ
我々は、単に個人主義という古いものを否定するだけにとどまるつもりはない。 我々は新しい可能性を探ろうとしているのだ。
現在は個人とは、社会や全体から目をそむけ、諸要求や私的要求の対象としてしか社会を捉えず、ひたすら私生活に逃避していく性向を持った存在に過ぎない。しかし「人間は全くそんな情けない存在でしかあり得ないのだろうか?」
現在の議論は、主体の中に、社会や集団全体を対象化する機能は普遍的に内在していないのか?あるとすればそれが発現される条件は?などを探る議論だと思う。
その点では社会構造の変化からの可能性と、人間存在からの可能性と双方からのアプロ-チが必要なことはいうまでもない。そして前者について一点だけ触れるとすれば、個人主義の社会的基盤は、市場社会化によって万人が私益追求の主体として「解放」されたことにある。しかし、現在先進国では貧困がほぼ消滅することによって私益的価値(金=貨幣価値や出世)が既に第2義化しつつある。
そしてその結果今まで抑圧封鎖されていた、「人間らしさ」を求める欲求が急速に浮上してきた。現在は逆にそのこと自体が価値と旧秩序の混迷を生み、社会を迷走させているという負の側面も目立つ。
この混迷はこのまま続くのか?今後私益的価値に代わって何が第一価値として浮上してくるのだろうか?
現在は第一価値はおそらく私生活や趣味、あるいは家族や友人が並立している状態だろう。
しかしそれらの中でも既に、個的生活の色彩が強いものから「仲間」的色彩の強いものに移行しつつある。現在若者の中で目立ち始めた、仲間を母体にしたベンチャーはその先端事例ではないだろうか。次の時代を読み解くキーワードは仲間への収束ではなかろうか。
北村浩司
現在は個人とは、社会や全体から目をそむけ、諸要求や私的要求の対象としてしか社会を捉えず、ひたすら私生活に逃避していく性向を持った存在に過ぎない。しかし「人間は全くそんな情けない存在でしかあり得ないのだろうか?」
現在の議論は、主体の中に、社会や集団全体を対象化する機能は普遍的に内在していないのか?あるとすればそれが発現される条件は?などを探る議論だと思う。
その点では社会構造の変化からの可能性と、人間存在からの可能性と双方からのアプロ-チが必要なことはいうまでもない。そして前者について一点だけ触れるとすれば、個人主義の社会的基盤は、市場社会化によって万人が私益追求の主体として「解放」されたことにある。しかし、現在先進国では貧困がほぼ消滅することによって私益的価値(金=貨幣価値や出世)が既に第2義化しつつある。
そしてその結果今まで抑圧封鎖されていた、「人間らしさ」を求める欲求が急速に浮上してきた。現在は逆にそのこと自体が価値と旧秩序の混迷を生み、社会を迷走させているという負の側面も目立つ。
この混迷はこのまま続くのか?今後私益的価値に代わって何が第一価値として浮上してくるのだろうか?
現在は第一価値はおそらく私生活や趣味、あるいは家族や友人が並立している状態だろう。
しかしそれらの中でも既に、個的生活の色彩が強いものから「仲間」的色彩の強いものに移行しつつある。現在若者の中で目立ち始めた、仲間を母体にしたベンチャーはその先端事例ではないだろうか。次の時代を読み解くキーワードは仲間への収束ではなかろうか。
北村浩司
2012年8月26日日曜日
個人主義者の詭弁 個人と自我
現在も個人主義者たちは、個人主義と自我(エゴ)の塊の様な自分主義とは違うんだという言い逃れの屁理屈を、繰り返しています。しかし、近代思想の中核を成す個人という観念の、更にその核心を成すのは他ならぬ自我という観念なのです。むしろ、個人という観念は、自我を肯定視し美化する為に作られた観念だと云っても良いでしょう。現に個人主義は、自我を肯定視しており、決して自我を否定していません。
ただ、'70年以降、あまりにも自分主義の弊害が大きくなってきたので、「他人の自由や権利を最大限に尊重するのが、本当の個人主義だ」という論調に変わってきました(そうでないと人々の共認が得られない)。しかし、そうなってもなお自我は肯定視されたままで、否定できないでいます。それも当然で、自我こそが個人主義の核心を成すものであり、もし自我を否定して他人の尊重を第一にすれば、個人主義は相手主義に大転換して終うからです。それほどに、自我(という観念)と個人(という観念)は、不可分なものとして形成されています。
ところで、最近の言い逃れの様な「相手の尊重」という個人主義の言い分ですが、いったい大切なのは自分なのでしょうか?相手なのでしょうか?それとも自分と相手がイコールの比重を持つのでしょうか?もし、自分と相手がイコールの比重を持つとすれば、その主体はもはや自我では在り得ず、(当然、個人という観念も消えて)全く新しい概念が必要になりますが、それは何なのでしょうか?
ただ、'70年以降、あまりにも自分主義の弊害が大きくなってきたので、「他人の自由や権利を最大限に尊重するのが、本当の個人主義だ」という論調に変わってきました(そうでないと人々の共認が得られない)。しかし、そうなってもなお自我は肯定視されたままで、否定できないでいます。それも当然で、自我こそが個人主義の核心を成すものであり、もし自我を否定して他人の尊重を第一にすれば、個人主義は相手主義に大転換して終うからです。それほどに、自我(という観念)と個人(という観念)は、不可分なものとして形成されています。
ところで、最近の言い逃れの様な「相手の尊重」という個人主義の言い分ですが、いったい大切なのは自分なのでしょうか?相手なのでしょうか?それとも自分と相手がイコールの比重を持つのでしょうか?もし、自分と相手がイコールの比重を持つとすれば、その主体はもはや自我では在り得ず、(当然、個人という観念も消えて)全く新しい概念が必要になりますが、それは何なのでしょうか?
| 四方勢至 |
2012年8月25日土曜日
経営者への提言:会議から社内ネットへ
どの会社も、会議には頭を悩ませている。曰く、「会議が増えて…」「会議が長引く」「会議が活性化しない」。
☆そもそも、会議はなぜ必要なのか?
それは集団というものが一個の有機的な生命体であり、人工的に役割を分担すれば、必然的にその分担からハミ出る課題群が発生するからである。
その分担からハミ出た課題の中でも最大の課題は「集団(or部門)をどう運営・統合するか」という集団統合の課題であり、最も難度の高い課題である。それが部門統合の場たる会議に押し付けられる。従って、当然、誰も答えを出せず、会議が不活性となり、閉塞してゆくことになる。
☆では、集団統合とは、どういう課題か?
それは第一に全成員の共認を形成することであり、第二に衆知を集めて(一人≒長では出せない)答えを見つけ出すことである。
その集団統合の課題を担う場としては、会議よりも社内ネットの方が数段秀れている。
第一に、社内ネットなら全社=全社員の共認を形成することが出来る。
第二に、対面の会議なら最底辺に引きずられてそこに照準を合わせざるを得なくなるが、社内ネットなら無数の発信が積み上げられてゆく中で、自ずと低レベルな投稿は捨象され、皆の期待が前向きな先端部分の投稿に集まってゆく。つまり、全社員の期待が上方の最先端に収束する。
第三に、発見とは一般に無関係と思われている二つの事象を結びつけることで生まれるが、自部門だけでなく(一見無関係な)他部門の発信にも触れることにより、しばしば思わぬ答を見つけ出すことができる。
○社内ネット導入の条件
1、何と云っても、経営者自身が、社内ネットの積極的な推進者とならなければならない。
2、次にネット発信の中核となる若手幹部3名以上が不可欠。
3、出来れば、社内ネット活性化の母胎となる充足発信部隊=女性群を育成したい。
○社内ネットと「るいネット」の相互乗り入れ
・それらのお手本として、類の社内ネットを参加企業に公開(アクセスフリーに)する。
・各社の社内ネット板役(管理者)が、佳作(で公開しても支障のない)投稿をるいネットに発信する。
・るいネット経営板の秀作投稿を、各社の社内ネットに配信する。or板役にメールでUP推奨する。
岡田淳三郎
☆そもそも、会議はなぜ必要なのか?
それは集団というものが一個の有機的な生命体であり、人工的に役割を分担すれば、必然的にその分担からハミ出る課題群が発生するからである。
その分担からハミ出た課題の中でも最大の課題は「集団(or部門)をどう運営・統合するか」という集団統合の課題であり、最も難度の高い課題である。それが部門統合の場たる会議に押し付けられる。従って、当然、誰も答えを出せず、会議が不活性となり、閉塞してゆくことになる。
☆では、集団統合とは、どういう課題か?
それは第一に全成員の共認を形成することであり、第二に衆知を集めて(一人≒長では出せない)答えを見つけ出すことである。
その集団統合の課題を担う場としては、会議よりも社内ネットの方が数段秀れている。
第一に、社内ネットなら全社=全社員の共認を形成することが出来る。
第二に、対面の会議なら最底辺に引きずられてそこに照準を合わせざるを得なくなるが、社内ネットなら無数の発信が積み上げられてゆく中で、自ずと低レベルな投稿は捨象され、皆の期待が前向きな先端部分の投稿に集まってゆく。つまり、全社員の期待が上方の最先端に収束する。
第三に、発見とは一般に無関係と思われている二つの事象を結びつけることで生まれるが、自部門だけでなく(一見無関係な)他部門の発信にも触れることにより、しばしば思わぬ答を見つけ出すことができる。
○社内ネット導入の条件
1、何と云っても、経営者自身が、社内ネットの積極的な推進者とならなければならない。
2、次にネット発信の中核となる若手幹部3名以上が不可欠。
3、出来れば、社内ネット活性化の母胎となる充足発信部隊=女性群を育成したい。
○社内ネットと「るいネット」の相互乗り入れ
・それらのお手本として、類の社内ネットを参加企業に公開(アクセスフリーに)する。
・各社の社内ネット板役(管理者)が、佳作(で公開しても支障のない)投稿をるいネットに発信する。
・るいネット経営板の秀作投稿を、各社の社内ネットに配信する。or板役にメールでUP推奨する。
岡田淳三郎
2012年8月24日金曜日
成功事例を本気で真似すれば、勝ち筋が見えてくる
共認時代の(闘争)能力を考える上で、最も重要になるのが対象直視である。私権時代における闘争では、闘争課題の対象に向かっているように見えて、ほとんどの場合、自分に対する評価を対象としていたが、それでも勝つことはできた。
しかし、自分に対する評価や雰囲気などは、「空気」や「霞」のようなものでしかなく、真の対象ではない。共認時代では(とりわけ激動の時代である現在は)、対象=人々の期待は刻々と変化してゆく。従って、対象を直視し、その期待を掴まなければ、勝つことはできない。
共認時代において、最も重要なのが対象直視であって、どこまで広く(角度)、深く(射程距離)対象を掴めるかが、勝敗を決する。
そして、対象把握の広さと深さは、可能性収束力に規定されている。可能収束力が強ければ強いほど、わずかな可能性であれ収束し続け、対象をより広く捉え、より深く掘り下げようとする。
この可能性収束力は、成功体験の蓄積に規定されている。成功体験が蓄積されていれば、困難な課題に直面した際にも可能性=勝ち筋を見通すことができる。
つまり、成功体験の蓄積が可能性収束力を生み、それが対象直視とその広さと深さを生み出すことになるのだ。
★対象直視(広さと深さ)⇒可能性収束力⇒成功体験の蓄積
しかし、自分に対する評価や雰囲気などは、「空気」や「霞」のようなものでしかなく、真の対象ではない。共認時代では(とりわけ激動の時代である現在は)、対象=人々の期待は刻々と変化してゆく。従って、対象を直視し、その期待を掴まなければ、勝つことはできない。
共認時代において、最も重要なのが対象直視であって、どこまで広く(角度)、深く(射程距離)対象を掴めるかが、勝敗を決する。
そして、対象把握の広さと深さは、可能性収束力に規定されている。可能収束力が強ければ強いほど、わずかな可能性であれ収束し続け、対象をより広く捉え、より深く掘り下げようとする。
この可能性収束力は、成功体験の蓄積に規定されている。成功体験が蓄積されていれば、困難な課題に直面した際にも可能性=勝ち筋を見通すことができる。
つまり、成功体験の蓄積が可能性収束力を生み、それが対象直視とその広さと深さを生み出すことになるのだ。
★対象直視(広さと深さ)⇒可能性収束力⇒成功体験の蓄積
2012年8月23日木曜日
余力を活かす場が、『社内ネット』
| たしかに、大衆には、余力が与えられていませんhttp://www.trend-review.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=264228が、 余力は作り出すものであって、当面は(類グループがそうであったように)、現業8時間に加え+αの時間を確保して組織活動や社会活動を行うしかありません。 実際、私権圧力が衰弱した現在、多くの企業で、社員の活力上昇を目的とした自主活動の時間が増えてきています。 自主活動の中身としては、スポーツや飲み会や社員旅行etcの解脱系、朝礼や研修etcの会議系、掃除やボランティアetcの社会系など様々ですが、これらは、「成果圧力がかからないので、質・活力ともにあまり上昇していかない」というのが現状です。 それらと比べても、最も効果が高いのは、『社内ネット』です。実際に社内ネットを導入した経営者の方々の評価も高いと云えるでしょう。 ・社内の情報共有スピードが上がり、オープンな空気になった。日常会話の壁が、驚くほど無くなった。開き出せる場がある事での安心感がある。 ・社員達の状況が、手に取るように解るようになった。対面での発信量が少ない人材も、沢山投稿するようになった。その結果、普段から何を考えているのか?が良く解るようになった。 ・社員の意欲を見ながら、次に進むべき方向性をじっくり考えていける。 経営者の重要の役割(仕事)は、共認形成です。 そのためには社員の気持ちを掴む必要がありますが、実は多くの経営者の方々は、社員の気持ちが掴みきれていないという不安を抱えています。 でも、『社内ネット』を導入すれば、それが見えてきます。この効果は大きい! 社員の気持ちが見えてくれば、経営者の方々が取り組むべき次の役割は、「会社をどういう方向に持っていけばいいか」という理念やコンセプトを確立して、その方向に沿った闘争共認・課題共認の形成を図ることです。 正しい状況認識に基づく的確な問題指摘と課題共認が形成できれば、『社内ネット』はさらに活性化し、それに応じて組織がさらに活性化してゆくからです。 とりわけ、女性や若手による期待投稿や感謝投稿が社内ネットを活性化させる効果は、目を見張るものがあります。例えば、類グループの『社内ネット』は、女性社員や若手社員による充足発信(http://www.trend-review.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=265202、http://www.trend-review.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=265353、http://www.trend-review.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=257818、http://www.trend-review.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=260509、http://www.trend-review.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=256828 )が母胎となって、今や毎日200投稿を超えるほど活性化していますが、そのような充足空間を作り出せたのも、その前提条件として、正しい状況認識に基づく方向や課題が全社員に共認されているからこそです。 向かうべき方向が全社員に共認されているからこそ、若手も女性も、課題を実現するための場作りや、皆を勢いづけるための充足発信という役割を、安心してor積極的に担うことが出来るし成果をあげることも出来ます。 ですから、経営者は全社員が共認できる「正しい方向」を提示する必要があります。 そのためには、経営者自身が、人類の意識構造や社会構造についての根源的な構造認識を習得することが不可欠になってきます。 |
| 西知子 |
2012年8月22日水曜日
市場からの撤収②
引き続き内田樹の研究室http://blog.tatsuru.com/2012/08/11_1040.phpより転載します。
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「円高」とか「国債格付け」とかいうことは、すでに実際の国富の多寡や生産物の質や市場の需要と無関係に語られている。
こういうファクターを決定しているのは「現実」ではなく「思惑」である。「未来予測」であり、同一の未来予測を共有するプレイヤーの頭数である。
「貨幣で貨幣を買うゲーム」は「ゲームの次の展開」だけが重要であり、「次はこういう展開になる」という「まだ起きていないことについての予測」が反転して「これから起きること」を決定する。
不思議なゲームである。
ここで流れる時間は、人間的時間の流れとはもう違うものである。
ある意味で時間は止っているのである。
だから、この「貨幣で貨幣を買うゲーム」のプレイヤーにはどのような人間的資質も、市民的成熟も求められない。
そこで必要なのは適切な「数式」と高速度の「計算」だけである。
だから、金融工学についての十分な知識をもっていれば「子ども」でも株や債券の売り買いについての適切なアルゴリズムを駆使して巨富を築くことができる。
現に、そうなっている。
今では人間に代わってコンピュータが一秒間に数千回というようなスピードで取引をしているのである。
グローバル経済にはもう人間主体のものでもないし、人間的成熟を促すためのものでもない。
私たちはそのことにようやく気づき始めた。
「こんなのは経済活動ではない」ということに気づき始めた。
「こんなこと」はもう止めて、「本来の経済活動」に戻りたい。そう思い始めている。
私にはその徴候がはっきりと感じられる。
そのような人たちは今静かに「市場からの撤収」を開始している。
さまざまな財貨やサービスをすべて商品としてモジュール化し、それを労働で得た貨幣で購入するというゲームの非合理性と「費用対効果の悪さ」にうんざりしてきたのである。
目の前に生きた労働主体が存在するなら、彼の労働をわざわざ商品化して、それを市場で買うことはない。
「ねえ、これやってくれる。僕が君の代わりにこれやるから」で話が済むなら、その方がはるかに合理的である。
経済学的にはこれは「欲望の二重の一致」といって「ありえないこと」とされている。
だからこそ貨幣が生まれたとのだ、と説明される。
だが、ある程度のサイズの「顔の見える共同体」に帰属していると、実際にはかなりの頻度で「欲望の二重の一致」が生じることがある。
これはやればわかる。
というか、欲望というのは自存するものではなく、「それを満たすものが目の前に出現したとき」に発動するものなのである(という洞察を語ったのは『羊たちの沈黙』におけるハンニバル・レクター博士である。私は博士の人間観の深さにはつねに敬意を払うことにしている)。
だから、共同体に「いろいろな財貨やサービスや情報や技能」をたっぷり持っていて、「誰か『これ』要らないかなあ」と思っている人が出入りしていると、「あ、オレが欲しかったのは、『これ』なんだ」というかたちで欲望が発動すると「欲望の二重の一致」はたちまち成就してしまう。
私の主宰する凱風館という武道の道場には約200人の人々が出入りしているが、専門領域や特技を異にするこれだけの数の人がいると、多様な相互扶助的なサービスのやりとりが貨幣を介在させずに行うことが可能になる。
今凱風館で行き交っている情報や知識や技術や品物の「やりとり」は、それらひとつひとつがモジュールとして切り出されて、パッケージされて、商品として市場で売り買いされた場合には、かなりの額の貨幣を積み上げても手に入れることがむずかしい質のものである。
だが、凱風館では貨幣は用いられない。
ここでは、情報や技術や品物が必要なひとはその旨を告知しておけば、そのうち誰かがそれを贈与してくれるからである。
この贈与に対する反対給付は「いつか」「どこかで」「誰かに」パスすることで相殺される。
いま贈与してくれた人も、かつて、どこかで誰かに「贈与されたもの」をここで次の受け取り手に「パス」することによって反対給付を果たしているのである。
貨幣が介在しないことで、ここでは貨幣で買えるものも、貨幣では買えないものも、ともに行き交っている。
これはもうある種の「物々交換」と言ってもよいだろう。
そして、すでに日本の各地では、さまざまなサイズ、さまざまなタイプのネットワークを通じて、このような「直接交換」が始まっている。
貨幣を媒介させるのは、「その方が話が速い」からであった。だが、今は貨幣を媒介させた方が「話が遅い」という事態が出来している。
自分の創出した労働価値を貨幣に変えて、それで他の労働者の労働価値から形成された商品を買うというプロセスでは、労働価値が賃金に変換される過程で収奪があり、商品を売り買いする過程で中間マージンが抜かれ、商品価格にも資本家の収益分や税金分が乗せられている。
それなら、はじめから労働者同士で「はい、これ」「あ、ありがとう」で済ませた方がずっと話が速いし、無駄がない。
例えば日本人の主食である米については、すでにその相当部分は市場を経由することなく、生産者から知り合いの消費者に「直接」手渡されている。この趨勢はもう止らないだろうと私は思っている。
こういう活動は「表の経済」には指標として出てこない。
すでに始まりつつある「国民の市場からの静かな撤収」についての経済の「専門家」たちの見解をメディアは報じないが、たぶんそれは彼らがそれについてまだ何も気づいていないからであろう。
一番敏感なのは就職を控えた若者たちである。
感度のよい若者たちはすでに自分たちを「エンプロイヤビリティ」の高い労働力として、つまり「規格化されているので、いくらでも替えの効く」労働者として労働市場に投じるほど、雇用条件が劣化するということに気づき始めた。
それなら、はじめから労働市場に身を投じることなく、「知り合い」のおじさんやおばさんに「どこかありませんか」と訊ねて、「じゃあ、うちにおいでよ」と言ってくれる口があれば、そこで働き始めるというかたちにした方がよほど無駄がない。
あまりに雇用条件を引き下げすぎたせいで、就活が過剰にストレスフルなものになり、就活を通じて人間的成長どころか心身に病を得る者が増えたせいで、労働市場から若者たちが撤収するという動きはすでに始まっている。
「市場からの撤収」は就活に限らず、あらゆるセクターでこれから加速してゆくだろう。
これからさき、ポスト・グローバリズムの社会では、「貨幣を集めて、商品を買う」という単一のしかたでしか経済活動ができない人々と、「贈与と反対給付のネットワークの中で生きてゆく」という経済活動の「本道」を歩む人々にゆっくりと二極化が進むものと私は見通している。
むろん、貨幣はこのネットワークが円滑に形成され、ひろがってゆくためにはきわめて効果的なアイテムであり、「本道」の人々も要るだけの貨幣をやりとりする。
だが、貨幣はもう経済活動の目標ではなく、ネットワークに奉仕する道具にすぎない。
--------------------------------------------
以上です。
新聞会
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「円高」とか「国債格付け」とかいうことは、すでに実際の国富の多寡や生産物の質や市場の需要と無関係に語られている。
こういうファクターを決定しているのは「現実」ではなく「思惑」である。「未来予測」であり、同一の未来予測を共有するプレイヤーの頭数である。
「貨幣で貨幣を買うゲーム」は「ゲームの次の展開」だけが重要であり、「次はこういう展開になる」という「まだ起きていないことについての予測」が反転して「これから起きること」を決定する。
不思議なゲームである。
ここで流れる時間は、人間的時間の流れとはもう違うものである。
ある意味で時間は止っているのである。
だから、この「貨幣で貨幣を買うゲーム」のプレイヤーにはどのような人間的資質も、市民的成熟も求められない。
そこで必要なのは適切な「数式」と高速度の「計算」だけである。
だから、金融工学についての十分な知識をもっていれば「子ども」でも株や債券の売り買いについての適切なアルゴリズムを駆使して巨富を築くことができる。
現に、そうなっている。
今では人間に代わってコンピュータが一秒間に数千回というようなスピードで取引をしているのである。
グローバル経済にはもう人間主体のものでもないし、人間的成熟を促すためのものでもない。
私たちはそのことにようやく気づき始めた。
「こんなのは経済活動ではない」ということに気づき始めた。
「こんなこと」はもう止めて、「本来の経済活動」に戻りたい。そう思い始めている。
私にはその徴候がはっきりと感じられる。
そのような人たちは今静かに「市場からの撤収」を開始している。
さまざまな財貨やサービスをすべて商品としてモジュール化し、それを労働で得た貨幣で購入するというゲームの非合理性と「費用対効果の悪さ」にうんざりしてきたのである。
目の前に生きた労働主体が存在するなら、彼の労働をわざわざ商品化して、それを市場で買うことはない。
「ねえ、これやってくれる。僕が君の代わりにこれやるから」で話が済むなら、その方がはるかに合理的である。
経済学的にはこれは「欲望の二重の一致」といって「ありえないこと」とされている。
だからこそ貨幣が生まれたとのだ、と説明される。
だが、ある程度のサイズの「顔の見える共同体」に帰属していると、実際にはかなりの頻度で「欲望の二重の一致」が生じることがある。
これはやればわかる。
というか、欲望というのは自存するものではなく、「それを満たすものが目の前に出現したとき」に発動するものなのである(という洞察を語ったのは『羊たちの沈黙』におけるハンニバル・レクター博士である。私は博士の人間観の深さにはつねに敬意を払うことにしている)。
だから、共同体に「いろいろな財貨やサービスや情報や技能」をたっぷり持っていて、「誰か『これ』要らないかなあ」と思っている人が出入りしていると、「あ、オレが欲しかったのは、『これ』なんだ」というかたちで欲望が発動すると「欲望の二重の一致」はたちまち成就してしまう。
私の主宰する凱風館という武道の道場には約200人の人々が出入りしているが、専門領域や特技を異にするこれだけの数の人がいると、多様な相互扶助的なサービスのやりとりが貨幣を介在させずに行うことが可能になる。
今凱風館で行き交っている情報や知識や技術や品物の「やりとり」は、それらひとつひとつがモジュールとして切り出されて、パッケージされて、商品として市場で売り買いされた場合には、かなりの額の貨幣を積み上げても手に入れることがむずかしい質のものである。
だが、凱風館では貨幣は用いられない。
ここでは、情報や技術や品物が必要なひとはその旨を告知しておけば、そのうち誰かがそれを贈与してくれるからである。
この贈与に対する反対給付は「いつか」「どこかで」「誰かに」パスすることで相殺される。
いま贈与してくれた人も、かつて、どこかで誰かに「贈与されたもの」をここで次の受け取り手に「パス」することによって反対給付を果たしているのである。
貨幣が介在しないことで、ここでは貨幣で買えるものも、貨幣では買えないものも、ともに行き交っている。
これはもうある種の「物々交換」と言ってもよいだろう。
そして、すでに日本の各地では、さまざまなサイズ、さまざまなタイプのネットワークを通じて、このような「直接交換」が始まっている。
貨幣を媒介させるのは、「その方が話が速い」からであった。だが、今は貨幣を媒介させた方が「話が遅い」という事態が出来している。
自分の創出した労働価値を貨幣に変えて、それで他の労働者の労働価値から形成された商品を買うというプロセスでは、労働価値が賃金に変換される過程で収奪があり、商品を売り買いする過程で中間マージンが抜かれ、商品価格にも資本家の収益分や税金分が乗せられている。
それなら、はじめから労働者同士で「はい、これ」「あ、ありがとう」で済ませた方がずっと話が速いし、無駄がない。
例えば日本人の主食である米については、すでにその相当部分は市場を経由することなく、生産者から知り合いの消費者に「直接」手渡されている。この趨勢はもう止らないだろうと私は思っている。
こういう活動は「表の経済」には指標として出てこない。
すでに始まりつつある「国民の市場からの静かな撤収」についての経済の「専門家」たちの見解をメディアは報じないが、たぶんそれは彼らがそれについてまだ何も気づいていないからであろう。
一番敏感なのは就職を控えた若者たちである。
感度のよい若者たちはすでに自分たちを「エンプロイヤビリティ」の高い労働力として、つまり「規格化されているので、いくらでも替えの効く」労働者として労働市場に投じるほど、雇用条件が劣化するということに気づき始めた。
それなら、はじめから労働市場に身を投じることなく、「知り合い」のおじさんやおばさんに「どこかありませんか」と訊ねて、「じゃあ、うちにおいでよ」と言ってくれる口があれば、そこで働き始めるというかたちにした方がよほど無駄がない。
あまりに雇用条件を引き下げすぎたせいで、就活が過剰にストレスフルなものになり、就活を通じて人間的成長どころか心身に病を得る者が増えたせいで、労働市場から若者たちが撤収するという動きはすでに始まっている。
「市場からの撤収」は就活に限らず、あらゆるセクターでこれから加速してゆくだろう。
これからさき、ポスト・グローバリズムの社会では、「貨幣を集めて、商品を買う」という単一のしかたでしか経済活動ができない人々と、「贈与と反対給付のネットワークの中で生きてゆく」という経済活動の「本道」を歩む人々にゆっくりと二極化が進むものと私は見通している。
むろん、貨幣はこのネットワークが円滑に形成され、ひろがってゆくためにはきわめて効果的なアイテムであり、「本道」の人々も要るだけの貨幣をやりとりする。
だが、貨幣はもう経済活動の目標ではなく、ネットワークに奉仕する道具にすぎない。
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以上です。
新聞会
2012年8月21日火曜日
8/12なんでや劇場3 農と塾における業態革命~塾においても業態革命の時代を迎えている
| ◆これが農という業態の大変革であるとすれば、果たしてそれは農だけのことなのか。 例えば、塾業界についても、そっくり同じことが起きているのではないか。 農において産直などの業態が登場してきたように、進研ゼミの赤ペン先生やZ会など、通信教育をメインとした業態がどんどん伸びてきている。 あるいは、中国地方を中心にした鴎州塾が破格の値段で、中国地方全体、九州へという流れの中で、大阪にも進出してきた。今や各塾の脅威となってきている。 さらには、全く別の次元の話で、できない生徒を居残りさせることは、昔から行われていたが、これまでは居残りは格好が悪いこととして非常に嫌がられたものだが、現在では、テストの出来が悪かったので居残りさせますと電話すると、ほとんどの母親は大喜びし、もっとしごいてやってくださいという反応が返ってくる。一方、子供の方も居残りに対してしょぼくれることも無く、当然のごとくやり、楽しそうに課題に向かっている、という状態が生まれている。 一体このような現象が起きているのはなぜか。これを解明するために、まず通信教育や激安塾がぐんぐん伸びてきている理由から考えていく。 進研ゼミは、福武書店が1955年に塾業界に参入した塾。つまり、他業種からの参入である。福武書店という名前からも分かるように教材を売ることが目的であり、今までの塾とは全く発想が違う。教材はせいぜい1000円~2000円であり、それに対して塾は2万円~3万円と比べると極端に安い。もし教材だけで生徒の成績を上げる期待に、ある程度応えられるのだとしたら、通信教育の方が伸びていくのは当然のことである。 実際、60年代~80年代までは、それで大きく伸ばしている。また近年、Z会も含め、通信教育が伸びてきているのは間違いない。鴎州塾が激安でどんどん伸びてきているのも、ここ4、5年の話である。 通信教育や激安塾の伸びの背景には、90年以降のバブル崩壊以降の長期大不況があり、それが低価格商品を伸ばしてきたことは、間違いないが、原因はそれだけではない。 それに加えて、311で、人々は自然の脅威の前では、すべてがひとたまりもなく吹き飛んでしまうことを思い知った。同時に、官僚、学者、マスコミなどの統合階級の無能ぶりが白日の下にさらけ出された。要するに、これまでも潜在していた勉強しても何になるんだという意識に火をつけてしまった。その結果、勉強離れが強く顕在化してきた。 もう一方で、このような全面閉塞、あるいはいつ何が起こるか分からないといった危機状況を背景にして、自給志向と全く同じ地平で、独学の気運が高まってきている。これを塾に引き付ければ、自習志向が高まってきているといえる。 ここのも先ほど農に見られた、農業はつくるだけではどうしようもない、というのに似た業態革命の必然が見られる。即ち、それまで塾の講師は教えてなんぼの世界であり、教えてさえいればそれで良かった。それが大多数の講師の状態であった。ところが、この独学の気運を背景にして起こっている、自習期待というのは、個々の教科を教えてもらうという以前に、とにかく自習する能力、習慣を身に付けさせてほしいという風に力点が動いている。 居残りをさせると母親が喜ぶのも、ここから来ている。子供たちの方も、数人で残されて『遅くまで頑張った!』という共通充足があって、楽しそうにやっている。 塾業界も従来の教えるだけでは、もやはどうしようもなく、例えば勉強法であるとか、勉強法を通じて自習の習慣を何とか身に付けさせて欲しい、というのが今後の中心需要となってくる。このように塾業界も大きく業態革命の時を迎えている。 (8/12なんでや劇場4に続く) 吉田達乃鯉 |
2012年8月20日月曜日
8/12なんでや劇場4 農と塾における業態革命~業態革命が必要となってきたのはなぜか
| ◆では、なぜこのような業態革命が必要となってきたのか。 まずは農の業態革命の背景から考えてみる。 自然志向や節約志向は、豊かさの実現から説明が可能だが、新しい概念でもある自給志向はそれだけでは説明できない。自給志向はどこから出てきているのか。 自給志向、自習志向は、その背後に、市場からの脱却≒自給自足的なイメージが孕まれている。とりわけ311以降、この流れが強く顕在化してきた。 70年のヒッピーは、自給志向的、あるいは共同体志向的であり、ややこれに近い雰囲気を持っていた。つまり自給志向や自習志向は、豊かさが実現された時から、既に登場していた潮流である。 では、70年代、80年代、90年代まで、大きな潮流とはならなかった自給期待や自習期待が、11年以降、急速に顕在化したのはなぜか。 70年の段階で既に市場の終焉は明らかであったが、その当時、99.9%の人々は、そんなことは夢にも気づかず、市場は薔薇色だと思っていた。実際、70年代、80年代は、まだ伸びる余地は残っていた。しかし、さすがに85年、伸びる余地が無くなってくると、金融経済に舵を切り数字上だけの誤魔化しの経済成長を続けてきた。 それが08年リーマンショックに始まって、今回の311をきっかけに、市場の終焉が潜在思念的にほぼ共認された。つまり、70年代・80年代と10年代の決定的な違いは、ここにある。 もし、そうだとすれば、市場からの脱却というベクトルは当然発生する。すると、とりあえずは自給自足という発想にいきつくのもわかる。 自給志向の背後には市場からの脱却というベクトルが存在するが、独学志向についても同じようなことが言える。独学志向の背後には、近代200年間続く染脳からの脱却というベクトルが存在している。それは、ここ数年の統合階級の所業を見てきたら、必然的に生じるものであろう。だから、独学志向の背景には、統合階級、支配階級に対するアンチという色彩が強く感じられる。 一方で、市場からの脱却の方も同様で、市場の終焉を迎えて、統合階級は何をしているかといえば、とことん大衆からむしり取ることばかりしている。今回の消費税増税も、TPPも、何もかもそうである。この期に及んで、金貸しと配下の統合階級がやっていることは、とことん大衆から搾り取って自分たちの権力の延命を図ることばかりである。そうならば、もう市場から脱却してしまえ、というベクトルが生じてきたのも当然だろう。 従って、311以降、自給志向や自習志向が急激に高まってきたのは、直接的には、この支配階級からのアンチが決定的なファクターとして介在している。 しかし、これがアンチだけでは全く実現可能性につながらない。重要なのは、アンチを貫いてもっと基底部に可能性収束していると言える実現基盤があるか否かである。 (8/12なんでや劇場5に続く)
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2012年8月19日日曜日
8/12なんでや劇場5 農と塾における業態革命~供給者が新しい業態をつくり上げ、供給する体制をつくりさえすれば、直ちに実現していく
| ◆アンチを貫いて、その基底部にある実現基盤は何か。 ネットの登場が1つ可能性として考えられる。 ネットがあることで生産者と消費者を直接つながるルートができたというのは、実現した可能性といっても良い。これは、超市場と呼べる代物かもしれない。 しかし、それと自給志向や自習志向は、どう繋がっているのか。 洗脳からの脱却=旧観念からの脱却という視点からみた場合、現在のネット界は、相変わらずアンチ、否定の論調で占められている。実現といった論調は、るいネットを初め、ごくごく少数しかない。つまり、実現可能性という地平から見ると大きな断層がある。 また、自給志向についても、現実の需要も供給もそっちのけで、どっかで霞でも喰うような自給自足の発想しかないのでは、何も実現に繋がらないことは明らかである。 以上から、自習志向も、自給志向も、幻想の段階にとどまっており、実現という地平との間には大きな断層がある。 では、この断層を埋めるものは何であろうか。 もちろん、自給志向にしても、自習志向にしても、いずれにしても本源的な価値観に基いていることは明らかだが、実現という地平にはまだ至っていない。ほとんど幻想に近い地平に漂っているのが現状である。この断層を突破するのが、需要と供給というフレームの中にはめ込んでしまう視点である。 確かに、ネットというインフラは既に供給されているものである。それに対して本源期待は全て幻想であって、つまり欠乏としてのみ、需要としてのみあって、まだ誰もそれに応える供給者が登場していない。自習期待や自給期待は明らかにあるのだから、それにぴったりの新しい業態さえ供給できれば、次々と実現していくと考えられる。 つまり、幻想と見える自給期待や自習期待は、実は新たな、かつ巨大な需要源なのである。したがって、供給者が新しい業態をつくり上げ、供給する体制をつくりさえすれば、それらの幻想期待は直ちに実現されていく。 それは、農における自給期待も同様であって、一部貸し農園のようなものが既に登場しているが、これも1つの先行形態に過ぎず、もっとそれよりも優れた仕組みを提供できれば、もっと顕在化してくる。後は、生産者が新しい可能性に気付いて、キャッチできるか、そしてそれを具体的な形として実現していけるかにかかっている。 (8/12なんでや劇場6に続く)
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2012年8月18日土曜日
8/12なんでや劇場6 農と塾における業態革命~他の業界も業態革命が起きていないのか
◆他の業界も同様な業態革命が起きていないのか。
農、塾という全く異なる業界で、似たような業態革命が起こっているということは、もっと普遍的に見られる現象であるはずである。そこで、こういった業態革命やそれに近い現象が、他の業界の事例にもないかを考えてみる。
例えば、設計業は、元々受注生産であり、ここで求められるのは最上流をどう攻めるかということになる。所謂、シンクタンク的な機能が不可欠となってくる。ポイントは、新しい意識潮流に応じた新しい需要が、どういう形で各業界に発生しているのかをまず掴むことにある。もちろん、全業種を対象にするわけにはいかないので、それを掴んだ上で次の可能性のある業種が何なのか、ポイントを見定める必要がある。
この需要の構造の変化の一番奥には、意識潮流の変化がある。そこで、もう一度その観点で意識潮流を見直していく。
70年豊かさが実現がした。その結果、物的飽和状態に達した。実は、この物的飽和は何を意味しているかは、今まであまり追求していない。そこで、物的充足とは何かを考える。
おそらく、それは利便性及び快適性の2つのファクターに分解される。近代、科学技術を含めて、もっぱらこの利便性と快適性を追求してきた。これが何で飽和するのか。利便性は、理論的に言えば飽和することは無い。それは快適性も同じである。
おそらく、これはコストの問題にある。つまり、70年あるいは80年までに達成されたような利便性・快適性については、つくればつくるほど売れるという形でペイしてきた。しかし現在、例えば空調の場合は、これ以上の快適性といわれても効果はちょっとしか上がらない割に、コストが莫大に上がるという関係にある。さらに、スピードについても同様で、これ以上のスピードを上げるには莫大なコストが掛かるが、その割にスピードが仮に3割上がったとしても利便性としたら大したことは無い。
要するに、コスト限界に達していることがわかる。これ以上の利便性・快適性を追求してもコストが全然合わないのである。これこそが物的飽和の正体である。
当然そこから70年以降は自然志向、90年以降は節約志向、11年以降は自給志向という段階にまで達してきている。しかし、これは単に物的飽和からだけ出てきたわけではない。もう1つ重要なファクターがあって、それは言うまでも無く、私権から共認へという潮流である。つまり共認充足が第一価値になった。
この共認充足第一という根底的な意識潮流は、その後、特に02年私権の終焉以降、課題収束、能力収束という流れを生じさせ、今や独学志向あるいは自習志向という段階にまで進んできた。
実は、自然志向とか節約志向、自給志向も、共認充足第一というファクターが強く影響を及ぼしている。おそらく歴史的に、共認充足が充分に得られていた時代、要するに私権時代以前の時代は、自然と一体であった。共認充足とこの自然志向は一体化する構造にある。さらに言えば、共認充足の最遠点には、実はかつての自給自足という自給志向とも密接に繋がっていると思われる。
従って、歴史的な体験記憶と繋がっているとすれば、共認充足は認識面においては当然、自分たちで考えていく、自分たちでつくっていく、という方向に繋がっていく。
(8/12なんでや劇場7に続く)
吉田達乃鯉
農、塾という全く異なる業界で、似たような業態革命が起こっているということは、もっと普遍的に見られる現象であるはずである。そこで、こういった業態革命やそれに近い現象が、他の業界の事例にもないかを考えてみる。
例えば、設計業は、元々受注生産であり、ここで求められるのは最上流をどう攻めるかということになる。所謂、シンクタンク的な機能が不可欠となってくる。ポイントは、新しい意識潮流に応じた新しい需要が、どういう形で各業界に発生しているのかをまず掴むことにある。もちろん、全業種を対象にするわけにはいかないので、それを掴んだ上で次の可能性のある業種が何なのか、ポイントを見定める必要がある。
この需要の構造の変化の一番奥には、意識潮流の変化がある。そこで、もう一度その観点で意識潮流を見直していく。
70年豊かさが実現がした。その結果、物的飽和状態に達した。実は、この物的飽和は何を意味しているかは、今まであまり追求していない。そこで、物的充足とは何かを考える。
おそらく、それは利便性及び快適性の2つのファクターに分解される。近代、科学技術を含めて、もっぱらこの利便性と快適性を追求してきた。これが何で飽和するのか。利便性は、理論的に言えば飽和することは無い。それは快適性も同じである。
おそらく、これはコストの問題にある。つまり、70年あるいは80年までに達成されたような利便性・快適性については、つくればつくるほど売れるという形でペイしてきた。しかし現在、例えば空調の場合は、これ以上の快適性といわれても効果はちょっとしか上がらない割に、コストが莫大に上がるという関係にある。さらに、スピードについても同様で、これ以上のスピードを上げるには莫大なコストが掛かるが、その割にスピードが仮に3割上がったとしても利便性としたら大したことは無い。
要するに、コスト限界に達していることがわかる。これ以上の利便性・快適性を追求してもコストが全然合わないのである。これこそが物的飽和の正体である。
当然そこから70年以降は自然志向、90年以降は節約志向、11年以降は自給志向という段階にまで達してきている。しかし、これは単に物的飽和からだけ出てきたわけではない。もう1つ重要なファクターがあって、それは言うまでも無く、私権から共認へという潮流である。つまり共認充足が第一価値になった。
この共認充足第一という根底的な意識潮流は、その後、特に02年私権の終焉以降、課題収束、能力収束という流れを生じさせ、今や独学志向あるいは自習志向という段階にまで進んできた。
実は、自然志向とか節約志向、自給志向も、共認充足第一というファクターが強く影響を及ぼしている。おそらく歴史的に、共認充足が充分に得られていた時代、要するに私権時代以前の時代は、自然と一体であった。共認充足とこの自然志向は一体化する構造にある。さらに言えば、共認充足の最遠点には、実はかつての自給自足という自給志向とも密接に繋がっていると思われる。
従って、歴史的な体験記憶と繋がっているとすれば、共認充足は認識面においては当然、自分たちで考えていく、自分たちでつくっていく、という方向に繋がっていく。
(8/12なんでや劇場7に続く)
吉田達乃鯉
2012年8月17日金曜日
大企業終焉の時代
戦後高度経済成長期以来、いわゆる「大企業」が産業界の主流であることが当然のように捉えられてきたが、ここに来て状況が大きく変わろうとしている。
大企業という組織形態は、大量生産・大量消費の時代(物的欠乏に応える工業生産の時代)、資本効率の最大化に価値を置く時代にのみ適応的であった。市場縮小の時代、共認充足の時代にはそぐわないものとなりつつある。
最近、いわゆる大企業が大幅なリストラを迫られ、苦境にあえいでいる。
経団連企業もおかしい。共認原理への転換と全く「逆走」するかのように自己利益の追求に向かっているが、こんな姿勢は長続きするはずもない。
「大企業の時代」は明らかに終焉を迎えつつある。
大企業終焉の時代 http://blogs.yahoo.co.jp/aquarius1969newage/62351257.html より紹介。
――――――――――――――――――――――――――
一流大学を卒業後、一流企業を目指すのは、失業へ向けてのベルトコンベアーに乗ったのと同じことである。
なぜか?
大企業の時代が終焉を迎えているからだ。
もちろん、全ての大企業がすぐに倒産すると言うのではない。
19世紀に始まった産業革命の到達した最終段階が、大企業の時代であり、それが今最終局面を迎えているのだ。
今、大型製造業は苦悶している。
その存在基盤が消滅しつつあるからだ。
巨大な資金が金融機関を通して集められ、投資され、巨大企業を作る。そこでは良質の商品が大量に作り出される。このシステムを成立させるためには、その商品を消費する巨大市場が存在していなければならない。
リンク
写真はトヨタの生産ラインだが、これが19世紀型の大企業のたどり着いた最高の理想形態。
社員は終身雇用、年功序列、退職金、各種保険、厚生施設、これらが保障されているのは、良質の商品を大量に生産するためだ。
消費者が欲しがる共通の商品を手際よく開発し、同じ品質のものを大量に作る。
この方式が成立しなくなりつつあるのは、消費者がすでに全ての商品を所有しており、代替需要しか存在しなくなった成熟社会の結果だ。
そこで企業は新しい分野を探す。
なければ、未開発国へ出てゆく。そこで、戦後の日本がたどった道を再度やりなおす。
リンク
こういった国へ出向き、自動車を売り込むわけである。
生産ラインごと輸出してしまう。
そこで産地生産・産地消費をやろうというのだ。
それらを可能にしているのが、デジタル革命であり、獲得された生産のノウハウである。結果、先進国で作ったのと同じような商品が安くでまわる。
それは、先進国に逆輸出され、またたくまに先進国を駆逐する。
結果、日本の大企業は非常にキビシイ状態にあり、行きぬくために今までの方式を放棄しつつある。
50代・・・逃げ切りライン
40代・・・微妙なライン
30代・・・あきらめライン
20代・・・夢なしライン
大企業に勤める社員を年代別に見ると、上記のようになる。
日立電気や、朝日新聞にいる50代の社員は、定年までなんとか現状維持が可能だろう。
しかし40代以下は、もう絶望しかないのが現実だ。
まして今年の新卒入社など、話にもならない。
これは悪いことではありません。
フツーの状態に戻っただけです。
人類の長い歴史を見れば分かるが、大企業が存在し、終身雇用が実行されたのは、ここ50年間ぐらいの短い時間に起こった、特殊な出来事に過ぎないのです
にも関わらず、特殊を一般と勘違いしたのが悲劇の原因です。
一生懸命勉強して一流大学を卒業して、一流企業へ就職する。
本人も、それ以上に両親は大喜びだが、それはぬか喜びだ。
むしろ面白い時代が始まった。そう捉えた方が楽しい。
だって、永い人類の歴史、みんなそうやってなんとか工夫して、あれやこれやをやりながら生きてきたわけで、終身雇用なんて江戸時代のサムライぐらいでしょ。
――――――――――――――――――――――――――
大企業という組織形態は、大量生産・大量消費の時代(物的欠乏に応える工業生産の時代)、資本効率の最大化に価値を置く時代にのみ適応的であった。市場縮小の時代、共認充足の時代にはそぐわないものとなりつつある。
最近、いわゆる大企業が大幅なリストラを迫られ、苦境にあえいでいる。
経団連企業もおかしい。共認原理への転換と全く「逆走」するかのように自己利益の追求に向かっているが、こんな姿勢は長続きするはずもない。
「大企業の時代」は明らかに終焉を迎えつつある。
大企業終焉の時代 http://blogs.yahoo.co.jp/aquarius1969newage/62351257.html より紹介。
――――――――――――――――――――――――――
一流大学を卒業後、一流企業を目指すのは、失業へ向けてのベルトコンベアーに乗ったのと同じことである。
なぜか?
大企業の時代が終焉を迎えているからだ。
もちろん、全ての大企業がすぐに倒産すると言うのではない。
19世紀に始まった産業革命の到達した最終段階が、大企業の時代であり、それが今最終局面を迎えているのだ。
今、大型製造業は苦悶している。
その存在基盤が消滅しつつあるからだ。
巨大な資金が金融機関を通して集められ、投資され、巨大企業を作る。そこでは良質の商品が大量に作り出される。このシステムを成立させるためには、その商品を消費する巨大市場が存在していなければならない。
リンク
写真はトヨタの生産ラインだが、これが19世紀型の大企業のたどり着いた最高の理想形態。
社員は終身雇用、年功序列、退職金、各種保険、厚生施設、これらが保障されているのは、良質の商品を大量に生産するためだ。
消費者が欲しがる共通の商品を手際よく開発し、同じ品質のものを大量に作る。
この方式が成立しなくなりつつあるのは、消費者がすでに全ての商品を所有しており、代替需要しか存在しなくなった成熟社会の結果だ。
そこで企業は新しい分野を探す。
なければ、未開発国へ出てゆく。そこで、戦後の日本がたどった道を再度やりなおす。
リンク
こういった国へ出向き、自動車を売り込むわけである。
生産ラインごと輸出してしまう。
そこで産地生産・産地消費をやろうというのだ。
それらを可能にしているのが、デジタル革命であり、獲得された生産のノウハウである。結果、先進国で作ったのと同じような商品が安くでまわる。
それは、先進国に逆輸出され、またたくまに先進国を駆逐する。
結果、日本の大企業は非常にキビシイ状態にあり、行きぬくために今までの方式を放棄しつつある。
50代・・・逃げ切りライン
40代・・・微妙なライン
30代・・・あきらめライン
20代・・・夢なしライン
大企業に勤める社員を年代別に見ると、上記のようになる。
日立電気や、朝日新聞にいる50代の社員は、定年までなんとか現状維持が可能だろう。
しかし40代以下は、もう絶望しかないのが現実だ。
まして今年の新卒入社など、話にもならない。
これは悪いことではありません。
フツーの状態に戻っただけです。
人類の長い歴史を見れば分かるが、大企業が存在し、終身雇用が実行されたのは、ここ50年間ぐらいの短い時間に起こった、特殊な出来事に過ぎないのです
にも関わらず、特殊を一般と勘違いしたのが悲劇の原因です。
一生懸命勉強して一流大学を卒業して、一流企業へ就職する。
本人も、それ以上に両親は大喜びだが、それはぬか喜びだ。
むしろ面白い時代が始まった。そう捉えた方が楽しい。
だって、永い人類の歴史、みんなそうやってなんとか工夫して、あれやこれやをやりながら生きてきたわけで、終身雇用なんて江戸時代のサムライぐらいでしょ。
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