とすれば、
☆古代の哲人(シャカやキリスト)は、なぜ一人で山奥にこもって修行し創出しなければならなかったのか?
●頭の中の本源価値を確立する為には、私権に塗れた現実から身を引き離し、完全に遮断する必要があった。かつ、現実(自我・私権)の引力に打ち克てるだけの潜在回路⇒観念回路を構築する為には、長い探求期間が必要だった。
☆では、近代の哲人(カントやマルクス)は、なぜ研究室や図書館にこもって、思索を重ねたのか?
●山奥と図書館の違いは、極めて暗示的である。近代思想は、現実の性闘争・自我に立脚している。そうである限り、現実から完全に隔離される訳にはゆかない。しかし、人々に共認させる為には、性闘争・自我を本源風に装飾し直さなければならない。そして、その様な観念体系を構築する為には、古代思想と同様に現実そのものからある程度隔離された空間(それが、研究室や図書館である)と長い探求時間が必要だったからである。
●何れも、頭の中の内在価値を現実引力に負けないくらい強く観念的に精練し、体系化する為の隔離であり、期間であるが、この様な観念思考そのものが、現実から隔離された思考という点でも、皆との交信から隔離された思考という点でも、実は狂った思考なのである。
●現在は、(本源価値の)実現の時代である。従って、大切なのは(原始以来、一貫してそうであった様に)現実そのものを対象化することである。即ち、頭の中の内在価値を対象化するのではなく、既に頭の中にある内在価値(潜在思念)をもって、頭の外の現実世界を対象化することである。
●だとすれば、我々は現実そのものの真っ只中に居なければならない。その資格は、素人のみが持っている。素人こそ、現実の真っ只中に生きる人であり、そうであるが故に素人こそが真の探求者=創造者足り得るのである。
逆に、現実から隔離されたプロ(特権階級たる学者や文化人やマスコミ)には、もはや創造者としての一切の資格はない。(現に、山奥でも研究室でもなく、現実の真っ只中に生きる共同体企業の中で、実現論は生み出された!)
●現実の真っ只中に生きる素人こそが真の探求者だとすれば、その追求過程は、当然、素人=みんなとの期待と応望の交信(やりとり)の真っ只中で、営まれなければならない。(実現論も、その様にして、生み出された。)
注:もちろん、一人で思考する時間が数時間or数日はいる。もちろん、それで終わる訳ではなく、生涯が追求過程である。しかし、みんなとの交信(やりとり)を遮断して、1週間以上一人で思考するのは止めた方が良い。観念思考に陥る危険が大きいからである。
●実際、現実を対象化する為には、できるだけ多くの素人仲間が、多くの情報を持ち寄った方が早い。
●そして、それらを統合する(その為に色んな切り口を提示する)のも、本来は出来るだけ多くの素人仲間が提示した方が、早いし、良い物が出来る。
(注:但し、現在は前稿で記した様に、自我から脱却し切れていないので、難しい。やはり、先覚者と素人仲間とのやりとりが基本形で、全員による新たな切り口の提示は、理想形でしかないと見るべきだろう。)
| 岡田淳三郎 |
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