2012年8月22日水曜日

市場からの撤収②

引き続き内田樹の研究室http://blog.tatsuru.com/2012/08/11_1040.phpより転載します。
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「円高」とか「国債格付け」とかいうことは、すでに実際の国富の多寡や生産物の質や市場の需要と無関係に語られている。
こういうファクターを決定しているのは「現実」ではなく「思惑」である。「未来予測」であり、同一の未来予測を共有するプレイヤーの頭数である。
「貨幣で貨幣を買うゲーム」は「ゲームの次の展開」だけが重要であり、「次はこういう展開になる」という「まだ起きていないことについての予測」が反転して「これから起きること」を決定する。
不思議なゲームである。
ここで流れる時間は、人間的時間の流れとはもう違うものである。
ある意味で時間は止っているのである。
だから、この「貨幣で貨幣を買うゲーム」のプレイヤーにはどのような人間的資質も、市民的成熟も求められない。
そこで必要なのは適切な「数式」と高速度の「計算」だけである。
だから、金融工学についての十分な知識をもっていれば「子ども」でも株や債券の売り買いについての適切なアルゴリズムを駆使して巨富を築くことができる。
現に、そうなっている。
今では人間に代わってコンピュータが一秒間に数千回というようなスピードで取引をしているのである。
グローバル経済にはもう人間主体のものでもないし、人間的成熟を促すためのものでもない。
私たちはそのことにようやく気づき始めた。
「こんなのは経済活動ではない」ということに気づき始めた。
「こんなこと」はもう止めて、「本来の経済活動」に戻りたい。そう思い始めている。
私にはその徴候がはっきりと感じられる。
そのような人たちは今静かに「市場からの撤収」を開始している。
さまざまな財貨やサービスをすべて商品としてモジュール化し、それを労働で得た貨幣で購入するというゲームの非合理性と「費用対効果の悪さ」にうんざりしてきたのである。
目の前に生きた労働主体が存在するなら、彼の労働をわざわざ商品化して、それを市場で買うことはない。
「ねえ、これやってくれる。僕が君の代わりにこれやるから」で話が済むなら、その方がはるかに合理的である。
経済学的にはこれは「欲望の二重の一致」といって「ありえないこと」とされている。
だからこそ貨幣が生まれたとのだ、と説明される。
だが、ある程度のサイズの「顔の見える共同体」に帰属していると、実際にはかなりの頻度で「欲望の二重の一致」が生じることがある。
これはやればわかる。
というか、欲望というのは自存するものではなく、「それを満たすものが目の前に出現したとき」に発動するものなのである(という洞察を語ったのは『羊たちの沈黙』におけるハンニバル・レクター博士である。私は博士の人間観の深さにはつねに敬意を払うことにしている)。
だから、共同体に「いろいろな財貨やサービスや情報や技能」をたっぷり持っていて、「誰か『これ』要らないかなあ」と思っている人が出入りしていると、「あ、オレが欲しかったのは、『これ』なんだ」というかたちで欲望が発動すると「欲望の二重の一致」はたちまち成就してしまう。
私の主宰する凱風館という武道の道場には約200人の人々が出入りしているが、専門領域や特技を異にするこれだけの数の人がいると、多様な相互扶助的なサービスのやりとりが貨幣を介在させずに行うことが可能になる。
今凱風館で行き交っている情報や知識や技術や品物の「やりとり」は、それらひとつひとつがモジュールとして切り出されて、パッケージされて、商品として市場で売り買いされた場合には、かなりの額の貨幣を積み上げても手に入れることがむずかしい質のものである。
だが、凱風館では貨幣は用いられない。
ここでは、情報や技術や品物が必要なひとはその旨を告知しておけば、そのうち誰かがそれを贈与してくれるからである。
この贈与に対する反対給付は「いつか」「どこかで」「誰かに」パスすることで相殺される。
いま贈与してくれた人も、かつて、どこかで誰かに「贈与されたもの」をここで次の受け取り手に「パス」することによって反対給付を果たしているのである。
貨幣が介在しないことで、ここでは貨幣で買えるものも、貨幣では買えないものも、ともに行き交っている。
これはもうある種の「物々交換」と言ってもよいだろう。
そして、すでに日本の各地では、さまざまなサイズ、さまざまなタイプのネットワークを通じて、このような「直接交換」が始まっている。
貨幣を媒介させるのは、「その方が話が速い」からであった。だが、今は貨幣を媒介させた方が「話が遅い」という事態が出来している。
自分の創出した労働価値を貨幣に変えて、それで他の労働者の労働価値から形成された商品を買うというプロセスでは、労働価値が賃金に変換される過程で収奪があり、商品を売り買いする過程で中間マージンが抜かれ、商品価格にも資本家の収益分や税金分が乗せられている。
それなら、はじめから労働者同士で「はい、これ」「あ、ありがとう」で済ませた方がずっと話が速いし、無駄がない。
例えば日本人の主食である米については、すでにその相当部分は市場を経由することなく、生産者から知り合いの消費者に「直接」手渡されている。この趨勢はもう止らないだろうと私は思っている。
こういう活動は「表の経済」には指標として出てこない。
すでに始まりつつある「国民の市場からの静かな撤収」についての経済の「専門家」たちの見解をメディアは報じないが、たぶんそれは彼らがそれについてまだ何も気づいていないからであろう。
一番敏感なのは就職を控えた若者たちである。
感度のよい若者たちはすでに自分たちを「エンプロイヤビリティ」の高い労働力として、つまり「規格化されているので、いくらでも替えの効く」労働者として労働市場に投じるほど、雇用条件が劣化するということに気づき始めた。
それなら、はじめから労働市場に身を投じることなく、「知り合い」のおじさんやおばさんに「どこかありませんか」と訊ねて、「じゃあ、うちにおいでよ」と言ってくれる口があれば、そこで働き始めるというかたちにした方がよほど無駄がない。
あまりに雇用条件を引き下げすぎたせいで、就活が過剰にストレスフルなものになり、就活を通じて人間的成長どころか心身に病を得る者が増えたせいで、労働市場から若者たちが撤収するという動きはすでに始まっている。
「市場からの撤収」は就活に限らず、あらゆるセクターでこれから加速してゆくだろう。
これからさき、ポスト・グローバリズムの社会では、「貨幣を集めて、商品を買う」という単一のしかたでしか経済活動ができない人々と、「贈与と反対給付のネットワークの中で生きてゆく」という経済活動の「本道」を歩む人々にゆっくりと二極化が進むものと私は見通している。
むろん、貨幣はこのネットワークが円滑に形成され、ひろがってゆくためにはきわめて効果的なアイテムであり、「本道」の人々も要るだけの貨幣をやりとりする。
だが、貨幣はもう経済活動の目標ではなく、ネットワークに奉仕する道具にすぎない。
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以上です。

新聞会

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